アラビアを築いたデザイナーたち|カイピアイネン、プロコペ、トムラ
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アラビアの器を並べていると、あるとき気づきます。これは誰かが描いたものだ、と。
量産品でありながら作家の手つきが残っている。それには理由があります。この窯には、工場のなかに作家のための部屋があったのです。
アラビアのアートデパートメント
1932年、クルト・エクホルムがアートディレクターに就任し、翌1933年にアートデパートメント(taideosasto)が正式な部門として整えられました。
これは工場のなかにありながら、量産のラインからは切り離された場所でした。作家は自由に手を動かし、そこで生まれたものが製品開発と並走する。そういう仕組みです。
ここで仕事をしたのは、ビルゲル・カイピアイネン、ルート・ブリュック、トイニ・ムオナ、キュッリッキ・サルメンハーラ、フリードル・シェルベリ、ミハエル・シルキン。フィンランド陶芸を代表する名前が並びます。
エクホルムは1947年の講演で、自分が来た当時の様子をこう振り返っています。アートデパートメントは「木造の古い事務所にあった、門番の低い小屋」で仕事をしていた、と。そこから、国際的に評価される作品が生まれていきました。

ビルゲル・カイピアイネン(1915〜1988)
装飾を減らさなかった人。
1915年ポリ生まれ。1937年に中央工芸学校を卒業し、22歳でアラビアへ。以後およそ50年、この窯にいました。
戦後の北欧デザインは、装飾を削ぎ落とす方向に進みます。カイピアイネンはその流れに乗りませんでした。彼にとって器の形は絵を載せる場所であり、主役はあくまで絵でした。
代表作がパラティッシ(1969年)です。これはモントリオール万博のために作った壁面レリーフ《オルヴォッキメリ/すみれの海》から生まれました。万博の作品を、家庭の皿に移し替えたわけです。
→ アラビア パラティッシについて詳しく
1977年に教授の称号。その後も工場に通い続け、1988年に亡くなりました。日本では「絵付けの王様」と呼ばれることの多い作家です。

ウッラ・プロコペ(1921〜1968)
使うための形を追った人。
1921年ヘルシンキ生まれ。1948年に中央工芸学校を卒業し、アラビアの絵付け部門に入りました。最初は手描きの現場、2年後にモデル・装飾部門へ。
彼女の仕事の特徴は、形と絵柄の両方を手がけたことです。リエキ(1957〜1978)、バレンシア(1960〜2002)、アネモネ、ルスカ(1961〜1999)、メリ。どれも長く作られました。長寿シリーズが多いということは、それだけ使いやすかったということです。
1957年のミラノ・トリエンナーレで名誉賞、1962年と1963年にはサクラメントの陶芸展で金賞を受けています。
そして1968年12月21日、テネリフェで亡くなりました。47歳。死因は珪肺症。工場で長年吸い込んだ珪酸の粉塵による職業病です。
ルスカは、彼女がいなくなったあと31年間つくられ続けました。
→ アラビア ルスカについて詳しく
カイピアイネンとプロコペを並べると、この窯の幅がよくわかります。装飾を極めた人と、使いやすさを極めた人が、同じ工場にいた。

エステリ・トムラ
植物を描き続けた人。
1947年にヘルシンキの美術工芸学校を卒業し、その年のうちにアラビアへ。以後1984年まで、およそ40年を装飾家として過ごしました。
彼女が描いたのは、ほとんどが植物です。庭の花、道ばたの草、森のベリー、香辛料のもとになる木。
代表作のボタニカ(1978〜1989年)は壁掛けプレートのシリーズで、植物の下にラテン名がトムラ自身の筆跡で書き添えられています。装飾というより記録に近い仕事です。薔薇を描いたローサ、森のベリーを描いた一群も続きました。
→ エステリ・トムラとボタニカについて詳しく
日常の器にも多くを残しています。オメナ(1959〜1975年)、パストラーリ、そしてシナモン・ジンジャー・カルダモン・クローブのスパイスポット。当店でもっとも数多くお迎えしてきたのが、実はこのトムラの器です。
デザイナーから選ぶという楽しみ
シリーズで選ぶのが一般的ですが、作家で追いかけるのも面白い集め方です。
プロコペで揃えれば、静かで使いやすい食卓になります。カイピアイネンなら、一枚で場が決まる器が並びます。トムラなら、植物が季節ごとに増えていきます。
同じ窯の器なのに、まったく違う顔になる。それがアラビアという窯の面白さです。シリーズごとの違いはアラビアの人気シリーズ12選でご覧いただけます。
現在のお取り扱いはアラビアの商品一覧から、これまでにお迎えいただいた器は過去の商品からご覧いただけます。
ブランド全体についてはアラビア ヴィンテージ食器ガイドにまとめています。